2014年2月19日水曜日

モノマネについて

ずっと告知とアーカイブばかりのブログだったので、
前回に続き駄文もたまに乗せる事にする。
今回はモノマネについて考えてみる。


僕はよくモノマネをする。

モノはジブリやピクサーのアニメだったり、地域のおじさんだったりいろいろで、割と似ている物もあれば、全く似ていないものもある。誰かに見せるものもちろん楽しいし、そのためにやっている部分もかなりあるけれど、そこまで特別な「芸」をやっている気はしていなくて、この単なる「モノマネ行為」はもう少し普通なもの、生きる機能として日常的に備わっている能力であるような気がしている。日常的にやるモノマネ行為は、特別な瞬間を自分の中に残しておくため、そして時としてそれを誰かに伝えるための手段として人に備わっている機能なのではないかと最近考えている。素晴らしい風景や瞬間を残したい伝えたいと思って絵や物語や音楽をつくる人がいる様に、モノマネ行為をしがちな人はある瞬間を自分の中にトレースする事で残し表現しているように思う。

世阿弥の「風姿花伝」に「物学(ものまね)」とあるように、「まねぶ=学ぶ」とモノマネは学習とも深く関連していて、事象を自身の中に取り込んで表現するというのは、そのまま記憶と応用という学習の過程とも言える。僕は地方にレジデンスに行くと、滞在終了となる頃にそこで出会った方のモノマネが出来る様になっている事がままあるが、それもまさしく学習と一体になった行為で、普段と異なった場を受容するために、人を観察し、土地の言い回しやリズムを身につけて行くと自然にそうなってゆく。こうやって自分を通過させる事で、モノマネ的に事象を受容している人は実は結構いるんだと思う。とんねるずの「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」が放送されて「細かすぎて伝わらないモノマネ」がこれでもかと出現して来たのは、プロでモノマネをやっていた人だけの活躍ではなく、本業の芸とは別にモノマネ行為を通して受容を日常的に行っていた芸人(たまに一般人も)がある程度いて、その人たちが表現する舞台を得た事による部分も大きいと思う。そうでないと、ムーブメントが起こったとはいえ、あそこまでニッチでくだらないところに目を付けて極めて行った人が、あの数いる事の説明ができない気がする。

もともと僕らは幼い頃から両親をマネながら学びながら、生き方を習得して来た。形そのままにマネるという行為はその後だんだん薄れ、またある部分では人のマネは悪しき事とされる場合もあり、モノマネ行為は心の中で対象をなぞる様な外部に表出しない形となって内面化されて行くのだと思う。受容や学習の過程と捉えるならば、良く生きようとする誰もがモノマネ行為をずっと行い続けているとも言える。モノマネは世界を自分の身体で分析してゆく行為だ。未知の物に体でぶつかってそれが自分にとって何なのかを理解しようとする過程だ。新たな明日を望んで生きようとする限り、人の中でモノマネ行為は終わる事はない。

ここまでは、モノマネ行為が受容や学習の一貫であり、実は日常的な行為なのかもしれないという可能性について話して来た。さらにそこから芸や表現として「モノマネ」を行う場合は、「似る」ということが一層重要になってくる。表現としてのモノマネは、とにもかくにも似ていないと面白くない。「似る」「似ない」という観点ではモノマネ行為によって自分が内面化して行ったものが、どれだけ他者の心にある記憶とリンクしているかが問題になってくる。本人そのものに似せるかではなく、本人を見ている多くの人の心の中にある「本人像」にどれだけ近づいているのかという事が最も重要な事だ。「あだ名」をつける事をきっかけにカムバックした有吉弘行も、「あだ名ではなく、世間のイメージを言っているだけ」と話していたが、面白さのバランスを他者の心にある「本人像」にポイントを置いたからこそあれだけウケたのだと思う。人は自分の心の中に知らずに内面化されていた記憶にふと気付かされた時、面白みや喜びを感じる。一時期エンタの神様で食傷気味になった「あるあるネタ」がウケる仕組みもここにある。

モノマネが対象に「似る」ということは、鑑賞者の「内面化されていた対象への記憶」をモノマネが刺激し、その「モノマネ」と「記憶」の間に共通性を感じられる状態になるという事だ。それがさらに面白いと感じられ「笑い」に繋がるのは、「笑い」が異物の受け入れ状態である「受容」と近しい関係にあるからではないかと思う。
物語の面白さを参加者全員が手探りのまま見いだして行く「いちまいばなし」の現場では、特にこの「笑い」が他者の発想を受け入れた受容の大きなサインとなる。物語の意外な展開に思わず吹き出す「笑い」ももちろんあるが、他者とイメージを共有したという受容の表明を「笑い」として発している事も多くある。「似る」という事が「笑い」に繋がるのは、鑑賞者の内面にある記憶と、モノマネがリンクした事で「受容」の状態がおこり、その承認表明としての「笑い」が起こるからである。

コロッケのロボコップ五木ひろしや、松村邦洋の織田信長(ビートたけし)のオールナイトニッポン等の芸が「似る」「似ない」という世界を離れ業のように横断しながら、信じられない程アクロバチックに展開できるのは、この「内面化された対象への記憶」という鑑賞者とのたったひとつの拠り所を自分の中で決して見失う事がないからだと思う。また、鑑賞者のある対象への記憶の内面化の過程が意識的でない程、その記憶に気付かされた時に起こる笑いや感動はより大きな物となり、人の意識下のより深い場所の記憶を引き出せた者が、その年のトレンドとも言うべき大きな「笑い」を生み出す事が出来る。近年では有吉弘行の「おしゃべりクソ野郎」や山本高広の「キター!」などがその最たる例だと思う。

「知らずに内面化された記憶」は、言い表せない何かを他者と共有する時の触媒として非常に有効になってくるものであり、デザイナーの深沢直人は「身体に意識されないような形で残っている記憶」、「意識からは忘れ去られてしまったような記憶」を「アクティブメモリー」と名付け、自らのデザインの重要な要素としているが、デザイナーに限らず、クリエイティブな事を行う人にとって総じて有用な概念だと言える。プロのモノマネ芸人とは、この内面化された記憶を発見する嗅覚と、それを自分の身体を通して発現させるクリエイティビティの両方を持ち合わせている人物だと思うが、その素養はアーティストだってかなり近い物があるはずだ。

と、いうわけで僕は今、ジョージアCMの山田孝之を懸命にまねようとしている自分を鏡で見て、急に不安になってこの文章を書き始めたけれど、それは決してくだらないことではなく、芸術家たる本性がそうさせている深い意義がある事に違いない。周りのアーティストもみんなやっている事なんだと信じている。いや、きっとそうだ。そうに違いない。

0 件のコメント:

コメントを投稿

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
「いちまいばなし」 by 佐藤悠 is licensed under a Creative Commons 表示 - 非営利 - 継承 2.1 日本 License.