2012年11月10日土曜日

「いちまいばなし Studio!」in「黄金町バザール2012」その10


黄金町バザールが会期に入って2回目のワークショップ。

今回、新たな形態に挑戦です。

今までは、参加者にお話の展開を振って答えてもらい、
そのレスポンスを絵にしてゆくという、「司会」的な役割を僕一人が行っていたのですが、最近、いろいろな形でその役割を他の人と分担する事が増え、その面白さを感じて来たので、思い切って、参加者全員にまんべんなく全ての役割をやってもらおうと考えました。ちなみに従来のやり方は、下の図のような形でした。














①話の展開を振る。
②話の展開を言う。
③展開を絵にする。

司会役と絵描き役は兼務。
話役のみ交代してゆく





この方法は司会役が、進行の多くを担当する構造なので、場をスムーズに回すために、司会には、情報処理能力や進行展開能力等、ある程度のスキルが求められます。ただ、重要なのは、「いちまいばなし」の面白さは、展開の巧みさが全てではなく、偶発性や、参加者の緊張感、躊躇、自己顕示欲等が大きく関係するので、参加者が安心して楽しめる様に、司会役のスキルがどんどん上がっていっても、必ずその場や、できた物語が面白くなるわけでは無いという事です。一年以上「いちまいばなし」を行って来て、最近この部分にジレンマを感じ始めていました。もともと予定調和を起こさせないために、参加者に展開をゆだねる構造になった「いちまいばなし」でしたが、続けてゆくうちに、だんだん僕自身の「司会」のスキルが蓄積され、場を巧く回そうという意識が、どうしても出て来てしまい、それが、物語をコントロールしつつあるという、本末転倒の流れになっていました。確かに、巧く場が回せないときの緊張感や、閉塞感は堪え難い物があるので、場のコントロールに傾倒していったのは、自然な防衛本能なのでしょうが。。しかし、このままでは「いちまいばなし」に次の展開はありません。目をつむってジェットコースターに乗せられているような、あのドキドキする感覚を取り戻すため、今回のワークショップから、下の図の様に形を変え、全員が各役割を担当する新たな試みを始めました。










<今回のやり方>
①話の展開を振る。
②話の展開を言う。
③展開を絵にする。

司会役と絵描き役を分担。
全ての役を交代しながら全員が担当。



いつも参加者に担当してもらっている、
物語の展開を話す「話役」の他に、「話役」に展開を聞いてゆく「司会」そしてそのレスポンスを絵にしてゆく「絵描き」の役割も参加者が順繰りに担当してゆく事にし、みんなで位置を変え、ぐるぐる回りながらの「いちまいばなし」となりました。

この方式で作った「いちまいばなし」がこちらです。
全く違うチームで違う日に作ったのに、なぜか共通する部分があるのが興味深いです。

「シカたないカモ」
「キラキラパンくん」







聞かれた事を答えるだけでなく、司会として何を相手に聞けばいいのか、言われた内容をどうやって絵にしていくのか等、参加者にかかる負荷はかなり大きくなりましたが、中には、逆に張り切って司会役や、絵描き役を担当する人もいました。また、いつも僕自身はあまりライブの中でで描く絵に意味を持たせないのですが、今回は絵もみんなで書いてゆくので、物語に出てくる「夕暮れ時や」、「廃線の線路」、「おなかがすいた様子」など、黒マジック一本では到底表しきれなさそうな事象を、参加者がどうやって絵にするのかを
それぞれが楽しみ、困惑し、絵にも集中しながらの「いちまいばなし」になりました。





 僕も初めて物語の内容を他人から振られる側となって、
そのつらさを身を持って体験しました。物語に登場する物には、完成した物語をより多くの人に楽しんでもらうため、一応「一般性のあるものを言う」というくくりがあるのですが、(ごく私的な人物や、何かのキャラクター等は物語に出さないようにする)基本的に何でも言ってもいい事になっています。だがこの「何でも」というのがクセモノで、そうは言われても、言った事が面白いのか、ダサいのか、他の人にどう思われるのかという事を嫌でも考えてしまう。要は自分の見栄や欲との戦いになってきます。






とりわけつらいのは、話役が言葉に詰まってしまい、場が硬直し始めるときです。
そんなとき、「シーン」となってしまうのを、笑ってごまかせるスキルを持つ人はありがたいし、その状況すら笑いに帰る事ができるのですが、少しシャイめの子供さんが、この状況に陥った時が一番大変で、問題からの逃げ方や、流し方をまだ知らないし、そもそも人前で話した経験も少ない。それなのに、いきなり大勢の前に引っ張りだされて、何かを発言しなければならない。司会役の僕でさえ、この状況はかなりつらいのですが、実はその何十倍もの重圧が彼らにあり、それを跳ね退けてあの言葉を生み出したのかと考えると、ものすごい事を成していたんだなぁ。と改めて感じました。

黙ったまま、問題に真っ向から向き合い、
それでも何かを言おうと恥ずかしさと戦っていた、子供さんの顔が今でも思い浮かびます。

 こんな状況を回避するために、司会の腕を磨いて来た部分もあるのですが、今はこのプレッシャーこそが、「いちまいばなし」の醍醐味なのではと考えています。前述した様に、「いちまいばなし」の参加者は、予期せぬ遭遇者たちとともに、強制的に物語作りのサイクルに取り込まれ、自分の思った事を人前で表現しなければならないという、プレッシャーを強いられます。また同時に、自分の発言した事で、全体の流れが変わってしまうかもしれないという責任も追わなければなりません。それらの状況は、参加者にとって必ずしも心地よい事ではないでしょう。しかし、そこで生まれる緊張や躊躇、思い切った攻めの気持ちや、防衛本能が、物語により生き生きとした展開を生み出します。そして、それを作っている場自体の緊張感を、人を伝って連鎖反応的に生んでゆき、真剣に発想ができる場を育んでゆきます。


岡本太郎の「今日の芸術」の中に、「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」という言葉がありますが、僕が考えるワークショップについても然りで、ワークショップとは、これまであった関係を組み替え、新たな関係を共に想像する事を実践するための手段であり破壊と創造が連続する試行錯誤の状態だと考えています。それは、普段の安定した関係を崩す事から始まるので、当然居心地の良い物ではありません。新しい関係をその場で構築するのですから、うまくできるはずも無いし、できた物がまとまりのある美しさを持っている訳でもありません。まだ価値もなく、どのように解釈してよいのかも分からないような、危うい関係がそこに立ち現れます。

 とは言う物の、果たして「いちまいばなし」が緊張とプレッシャーが渦巻く殺伐とした状況で行われているかというと、そういう事でもありません。このままの状態でいたくないような、ある種の「心地悪さ」をあえて作る事で、それをどのように解決するのかという、想像を参加者に促してゆくことがこの活動の核になってゆくのですが、その合間合間は、やはり場が硬直しやすくなって、ジトッとした嫌な空気になります。そこで重要なのは、居合せた参加者が、その嫌な空気を共有する雰囲気を作る事だと思います。それは、最初の方に書いた、「場をうまく回す事」とは少し違います。最近私が傾倒しかけた「場を回すうまさ」とは、そういった嫌な空気が参加者の意識に上ってこないよう、巧みにその状況を回避したり、排除する事です。そうではなく、参加者が、嫌な空気や心地悪さを意識した上で、受け止める余地、余裕を作っておくという事が、新たな想像力を生む場の土壌となるのです。嫌な事を嫌な事として受け止めるというのは、多分ものすごく高度な事で、人はこういう状況に陥ると、だいたい無視して無かった事にしてしまうか、無条件に肯定して受け入れるかのどちらかになる事が多いと思います。でも、そんな状況に、誰かと共に立ち向かえれば、少し立ち止まって考えられるかもしれない。だれかと問題を分かち合う事ができれば、何か別の想像力が生まれるかもしれない。それが「いちまいばなし」の活動が持つ可能性だと僕は考えています。なので、今後必要なのは、心地悪さを作り出すと同時に、そこにみんなが向かってゆける状況を作りだすスキルなのだと思いました。








と、そんな感じで、初めて自分が発言する側に回ったショックが大きくて、長々と考えた事を書き綴ってしまい、いつもと全然雰囲気の違うブログになってしまいました。。
さて、そうこうしているうちにまたパフォーマンスの日。明日はどんな「いちまいばなし」が生まれるのやら。。。




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